人間国宝になって60歳まで国から2億貰いたい!

タイトルと本文は関係ないです。
そもそもとして言葉の読み書きが好きで、かつメモ魔で、手書きの日記まで書いてあまつさえはてなブログをやっています。
手書きの日記にはいちいちタイトルなんぞ付けないけれど、WEBだとタイトルが必要になる。
人に向けておもしろおかしい情報を提供したり、有益なブログでも何でもないので、タイトルが1番困る。

タイトルなし とか 無題 とか記入してもいいのだけれど、あとで自分が読み返したとき(この行為がけっこう好きだったりする)、なんとなくタイトルがあったほうが可愛げがある気がする。

手書きの日記を読み返すのだけは苦手で、なぜかというと、ほんとうにリアルなことが書いてあり、身の回りの事件や事故などの出来事もそうだし、ほとんど嫌なことばかり書いているのです。その昔『いいこと日記』と名付けて、いいことや嬉しかったことだけを記入する、ということもやっていたけれど、限界だった。
根暗な真面目系クズには苦行でした。

嫌なことはずっと心を支配しているけれど、書くことによって多少その支配力は弱まるわけだ。 なので読み返すことによって、その時の気持ちがまざまざと蘇り、自己嫌悪になり、思い出して腹が立ったり哀しんだりすることがおおく、それに振り回されるのも疲れてしまう。

WEBだと、宣伝をしていないから自分以外の人間が見ることは無い、ということはまずありえないので、とくに取り留めのないようなことや知られて困らないようなことを書く。
誰だか分からないことを逆手にとり、特定されない範囲でフェイク入れつつ憂さ晴らしすることもたまにはあるけれど。


毎日、毎度、常に思うことがある。
チクリと心を刺す出来事は、ほんと毎時間起こっている。これは捉え方の問題で、私が非常にネガティブだし被害妄想が強くて卑屈な感じなので、何気ないことも悪く捉えるせいもある。

こういう考えをしていて、ほんとうに疲れる。
自分のことながら自分に振り回されていて、気が滅入ってしまう。


私の知り合いでひとり、とんでもなく明るくてそして気配りや思いやりがあり、人とのコミュニケーションが好きな人がいる。
以前勤めていた職場のパートさんなのだけれど、仕事はお金を貰うためにやっているという考えの私は、接客業なのでお客様や職場で見せる顔と家に帰ってからの顔のギャップに苦しんでいた。

その人は、この仕事が好き!と朗らかに言い放ち、ほんとうに仕事が楽しそうだった。
なんで仕事でそんな楽しめんの、、なんて煩わしく思った時もあるけど、人柄というか人間性というか、その人を形作るものすべてが羨ましくて、おまけに気が合ったからか一緒にいてとても楽しかった。

こういう人が自分の母親だったり(実際に母とそんなに年齢が変わらない)、そばにいる人だったら、考え方がすこしは前向きになるんだろうなぁ、って。だから娘さんと息子さんと旦那さんが羨ましかった。

つい、自分の両親や夫とそういう『一緒にいて気持ちが良いひと』と比較して、ちょっと落ち込んでしまうときもある。そういうことはしてはいけない、って、分かってるんだけど、つい。

普段は、人は人自分は自分って言って、人間関係を中途半端に制限したり諦めてしまうことが多いんだけど、心の底ではやっぱり違うようだ。

親から『お前はこうなんだ、世間はこうなんだ』と言い続けられてしまうと、自分にも他人にも諦めてしまう。どうせ、でも、だって、がつい口に出てしまう。
何事も中途半端だから達成感を味わいたいんだけど、ゴールがわからない。迷っても『迷いました、助けて』がどうしても言えない。

『お前なら出来るから1人でがんばれ』
いや、出来ません、って、言えなくなる。
息が切れてヘトヘトでも止まることが出来ず、そのうち自爆する。
回復の仕方やいたわり方がよく分からないから、壊れていても怪我をしてもまた走り始めてしまう。止まったら身も心もなくなってしまいそうで。


いい歳した大人のくせに親のせいにするな、自分の責任だろ、って、思われてしまうのかな。
アダルトチルドレンとそうでない人の差は、このあたりがけっこう大きいんじゃないかな。




機能不全家庭で育った自分が、家庭を持ってほんとうに良かったのだろうか?

一時期立ち直ろうと、自分の中に存在している癒しが必要な過去の自分のために、いろいろ資料や本を集めたりセルフメディケーション?について、いろいろ調べたこともあったけど、結局は自分ひとりじゃうまく出来なくて挫折。
生きにくさは死ぬまで抱えるんだ、と半ば諦めていたけど、息子のために過去の自分の癒しをしなければいけない。助けて欲しいこと、わからないことを他人に求め、私みたいな考え方にならないよう、至らないよう。
明日が楽しみな人間になってほしいから。