どうにかならんものか

たまに、物事に対して感じることがまったく合わないタイプの人がいる。いわゆるツボが合わない。
なにがおもしろいとか、なにがおいしいとか、あれがこう感じるとか。正反対というかそもそもとして自分では理解出来ないポイントで笑っているとか、視点が素っ頓狂だったり。しかもこのタイプの人間は『まぁでも結局は、所詮人は人、意見とか感度のものさしは違うよね』ってことが頭に無い。
だから何事も自分が正しいと思っていて、それが一般常識。それ以外の意見や好みはおかしい、と。
ゆえにすり合わせや譲歩が出来ず、自己中心的というのを体現している。

それが理由で友達がいないのか、友達がいないから結果論としてそういう感性になってしまっているのかはまた、人によるんだろうけど、後者はまだすこしマシ。様々な人からの様々な角度からの説得や多数派の意見を聞くことで『あれ?』って思える。
でも前者はもうどうにもならない。明らかな理由で人が離れている。そしてさらにマジョリティと離れてしまうという悪循環。

差。

何事も比較するのは良くない、ということ。
もちろん、ある事柄によっては比べてみて新たな発見があるかもしれないけれど、大体よくないことについて、モデルケースとの比較で落ち込んだりすることが多い。
かなりの個人差があることだって、なんとなく比較して確かめないとソワソワしてしまい、見比べてみてやはり結果を知って落ち込むのがセオリー。

上ばっかり見たって仕方がないだとか
一概にどれも一緒じゃないよとか
まぁ誰にでも言えることで、なんとか誤魔化したりするけど、頭の隅っこにそれがこびり付いてふとした時に思い出す。


誰かと比べてどうか、とか
何かと比べて劣ってる、とか
それぞれの物差しがあるのに、ひとつのことにこだわりすぎてしまう。

傍から見て気にしてないように見えて、実の所は影でこっそりオドオドしてしまっていたり。


その差が、縮まるパターンと並行のパターン、そして悪しき広がってしまうパターン。
考えれば考えるほどドツボにはまり続けて抜け出せなくなるのは、目に見えてるのにねぇ。

無になる、何も考えないということがどうしたって出来ない。少しの間なら可能なのかもしれないが、たとえばベッドに入って目をつぶったときとかアレコレ無駄に考えてしまう。
その考える力やエネルギーを他に回せればよいのにね!

ゼロか百か思考の罠から脱出出来るのだろうか?

人間国宝になって60歳まで国から2億貰いたい!

タイトルと本文は関係ないです。
そもそもとして言葉の読み書きが好きで、かつメモ魔で、手書きの日記まで書いてあまつさえはてなブログをやっています。
手書きの日記にはいちいちタイトルなんぞ付けないけれど、WEBだとタイトルが必要になる。
人に向けておもしろおかしい情報を提供したり、有益なブログでも何でもないので、タイトルが1番困る。

タイトルなし とか 無題 とか記入してもいいのだけれど、あとで自分が読み返したとき(この行為がけっこう好きだったりする)、なんとなくタイトルがあったほうが可愛げがある気がする。

手書きの日記を読み返すのだけは苦手で、なぜかというと、ほんとうにリアルなことが書いてあり、身の回りの事件や事故などの出来事もそうだし、ほとんど嫌なことばかり書いているのです。その昔『いいこと日記』と名付けて、いいことや嬉しかったことだけを記入する、ということもやっていたけれど、限界だった。
根暗な真面目系クズには苦行でした。

嫌なことはずっと心を支配しているけれど、書くことによって多少その支配力は弱まるわけだ。 なので読み返すことによって、その時の気持ちがまざまざと蘇り、自己嫌悪になり、思い出して腹が立ったり哀しんだりすることがおおく、それに振り回されるのも疲れてしまう。

WEBだと、宣伝をしていないから自分以外の人間が見ることは無い、ということはまずありえないので、とくに取り留めのないようなことや知られて困らないようなことを書く。
誰だか分からないことを逆手にとり、特定されない範囲でフェイク入れつつ憂さ晴らしすることもたまにはあるけれど。


毎日、毎度、常に思うことがある。
チクリと心を刺す出来事は、ほんと毎時間起こっている。これは捉え方の問題で、私が非常にネガティブだし被害妄想が強くて卑屈な感じなので、何気ないことも悪く捉えるせいもある。

こういう考えをしていて、ほんとうに疲れる。
自分のことながら自分に振り回されていて、気が滅入ってしまう。


私の知り合いでひとり、とんでもなく明るくてそして気配りや思いやりがあり、人とのコミュニケーションが好きな人がいる。
以前勤めていた職場のパートさんなのだけれど、仕事はお金を貰うためにやっているという考えの私は、接客業なのでお客様や職場で見せる顔と家に帰ってからの顔のギャップに苦しんでいた。

その人は、この仕事が好き!と朗らかに言い放ち、ほんとうに仕事が楽しそうだった。
なんで仕事でそんな楽しめんの、、なんて煩わしく思った時もあるけど、人柄というか人間性というか、その人を形作るものすべてが羨ましくて、おまけに気が合ったからか一緒にいてとても楽しかった。

こういう人が自分の母親だったり(実際に母とそんなに年齢が変わらない)、そばにいる人だったら、考え方がすこしは前向きになるんだろうなぁ、って。だから娘さんと息子さんと旦那さんが羨ましかった。

つい、自分の両親や夫とそういう『一緒にいて気持ちが良いひと』と比較して、ちょっと落ち込んでしまうときもある。そういうことはしてはいけない、って、分かってるんだけど、つい。

普段は、人は人自分は自分って言って、人間関係を中途半端に制限したり諦めてしまうことが多いんだけど、心の底ではやっぱり違うようだ。

親から『お前はこうなんだ、世間はこうなんだ』と言い続けられてしまうと、自分にも他人にも諦めてしまう。どうせ、でも、だって、がつい口に出てしまう。
何事も中途半端だから達成感を味わいたいんだけど、ゴールがわからない。迷っても『迷いました、助けて』がどうしても言えない。

『お前なら出来るから1人でがんばれ』
いや、出来ません、って、言えなくなる。
息が切れてヘトヘトでも止まることが出来ず、そのうち自爆する。
回復の仕方やいたわり方がよく分からないから、壊れていても怪我をしてもまた走り始めてしまう。止まったら身も心もなくなってしまいそうで。


いい歳した大人のくせに親のせいにするな、自分の責任だろ、って、思われてしまうのかな。
アダルトチルドレンとそうでない人の差は、このあたりがけっこう大きいんじゃないかな。




機能不全家庭で育った自分が、家庭を持ってほんとうに良かったのだろうか?

一時期立ち直ろうと、自分の中に存在している癒しが必要な過去の自分のために、いろいろ資料や本を集めたりセルフメディケーション?について、いろいろ調べたこともあったけど、結局は自分ひとりじゃうまく出来なくて挫折。
生きにくさは死ぬまで抱えるんだ、と半ば諦めていたけど、息子のために過去の自分の癒しをしなければいけない。助けて欲しいこと、わからないことを他人に求め、私みたいな考え方にならないよう、至らないよう。
明日が楽しみな人間になってほしいから。

不要なものたち

結論を言ってしまえば、私が力不足でカバー出来ていないんだけど、でももういい加減頭がどうにかなりそう。
自分が惨めで仕方がない。どんどん自分に自信がなくなって、どんどん自分が嫌いになって、どんどん自分の存在が薄れていく。
私という個人的な人間は、もはや必要ではないのかもしれない。

おそらく自分の思いの丈を吐き出したところで、それを拾ってくれるわけもなく、我が儘と一蹴されるのが関の山なので、もう何も言わない。傷付くのが分かっていて特攻は出来ない。
言わないと分からないとか、言うけれど、言ったところで否定されるなら言わないほうがマシなのよね。
もう繰り返しているとそうなってしまう。
自分の中だけにしまっておこう。どうせ人には片付けられないことなのだし、自分の問題は自分で片付けなくてはね。

とりあえず、なんだか疲れたなぁ。
毎日意味の無いことをしていて、いったい誰のプラスになっているんだろうか。

削れすぎてなくなってしまいそうだ。
なぜ?と思っても悲しくなるだけなので、もう考える力は要らないのかもしれない。
私自身もそれほど大切なものでもない。ぜんぶ、自分の都合のいいように自分が気持ちくなるためだけに動いているんだろうな。


私ばっかり私ばっかり!って、思うのはよくないことなんだけど、それが出てしまう私はまだまだだ。
なにも考えなくてもいいように達観しなければ。考えの一切を排除出来るようにならなければ。たぶんそれが、私が上がりも下がりもせずフラットに生きていける条件。

ラジオのように

うつらうつらと、眠ったようで起きている。いつのまにかベッドに入ってから何時間も経っていて、段々空が明るくなってくる。
その時間の空を見るのは久しぶりだなぁとか考えてた。
去年の夏入院してたときもなかなか環境に適応できなくて、夜通し起きてたこともあったなぁ。
その時は1日、1分1秒がとてつもなく長く感じたけど、今は1日過ぎるのがとてつもなく早い。
それだけ忙しく、まぁ言いかえれば充実しているのだろうけど、ただ眠っていたいだけなのに朝がやってくるのがすごく嫌な時だってある。
んでも嫌嫌と言ってるだけでは済まされないので否応にでも動き出さなければ行けないからこそ、毎日別の人間の皮を借りてるような違和感は否めない。
ほんと、なんていうか、たまに訳が分からなくなって直前まで何をしていたのか覚えていない時もあるし、効率的に物事をこなすのが致命的に苦手になった。結局二度手間だったり同じ失敗をしてしまったりするんだけど、振り返ってもいられないのでわりとそんな毎日を繰り返している。

たまにその忙しい時の中で、はっとゆっくり動いているのは、まさに明け方の空を見ている時で、眠れなくて気持ちは焦っているんだけど、きちんと時間が経っていることの安心感みたいなのもある。
生きているというよりはただ過ぎるのを待つだけの生活で、生きるという仕事をしている気分だけど、その丁寧にゆっくりと明けていく夜を見届ける爽快感たらないな。 まぁ、すぐにまた動き出さなければいけないタイミングはやってくるんだけど。

GENERATION JUNGLE

若者が流行のど真ん中を歩む、音楽だとかファッションのカルチャーに、その親くらいの世代の大袈裟に言えば『年寄り』が割って入るのはものすごく野暮なことだしうざったいのである。
その年寄りがかつて若者だった時代もあり、その時代には今と違う流行があり、そのまた親世代に『近頃の若いもんは』なんて言われ、理解されない中で自分の好きなものを追い掛けて、、、。
10代には10代の、20代には20代のそれぞれの世代のひとつの世界があるとおもう。SNSが盛んになった今ではとくにそう。

音楽の形が変わってきて、若者皆が皆、開封しにくいCDのビニールに手こずってやきもきしているわけではなく、さくっとダウンロードした音楽をいつでもどこでも聞いている。

『今はこんなのが流行ってんのか』とか
『おれらの若い頃にもこんなのがいてなぁ』とか
正直、めんどくさいので黙っていてくれませんか、って。

同じ世代で、音楽についてあれこれ話すのとはわけが違い、どうも自分が主体で話し始める。

先に生まれて来た方が偉いのか。
社会に出れば、そうかもしれないけど、仕事や会社とはなんら関係の無い趣味の領域に年寄りは入ってきて欲しくないのである。

眠気が。

換気扇の音がうるさくってたまらない。重たい腰を上げて換気扇をOFFにすると、今度は外がうるさい。近所にバイクいじりをする人がいるようで、好い気候の昼下がりにはかならずエンジンをかける音がする。近くのコンビニへ出掛けると、道すがらそのお宅の近くを通るのだけど、たまに仲間と思しき人が2,3人集まっている。
この季節は窓を開けることが多いので、静かにしてほしい時に限ってエンジンをかけることが多く、アーーーッと心の中で叫んでいる。


息子が添い寝もしくは腕枕じゃないと、昼間は寝なくなってしまい、時間をとてもとられてしまうのだけど、ある程度大きくなったら添い寝もさせてくれなくなるんだろうな、と思うと、既に乾いて取り込まなければいけない洗濯物だとか、途中になった夕飯の支度だとかはついつい後回し。

いつの間にかうつらうつら、つられて寝ていたようで、テレビをつけたままにしていたので寝ぼけ半分にテレビの音声が聞こえてくるんだけど、『エリートおっさん、エリートおっさん』言うからどんなテレビやってんだと不思議だった。
やっとこ起きてテレビを確認したら『海老蔵さん』と言っていたことが判明。
でも市川海老蔵さんがエリートおっさんなのは、あながち間違っていないと思った。